イ・ホンイの「ソウルde演劇めぐり」Vol.24

 

仮想世界の中の倫理を問うSF捜査劇『The Nether』

SF推理劇に挑む、名優イ・デヨン

韓国人である私にも中々解けない韓国の謎が一つあります。それは、なぜか韓国では推理やSFなどのジャンルがあまり愛されていないことです。物語より目の前の現実がもっとドラマチックだったからでしょうか? 小説や映画も見ても、歴史物やドキュメンタリーの方がずっと人気があるのです。推理とSFはマニア=少数が楽しむジャンルだという認識があり、私も子どもの時から推理小説やSF小説が読みたくなったら、図書館の海外文学コーナーの隅で本を探すのが当たり前でした。欧米ドラマのヒットにより、推理やサスペンスはどんどん人気を得てきましたが、それに比べても特にSFはいつも遠い存在でした。勿論、これは演劇界も同じで、今まで韓国演劇の歴史のなかで「SF」と言えるような作品はほぼなかったと言えます。
しかし最近、人工知能の人気が高まり、科学と芸術の融合事業を支援する基金が設立されたことで、演劇界のなかでもSFに対する関心が増えています。翻訳者としても、変化を実感していて、ほんの2年前にはSF的な要素が入った作品をプロデューサーや演出家に紹介すると断られてしまいましたが、最近は新鮮な素材に興味を持つ創作者が出てきています。こんな雰囲気のなかで、8月24日から大学路で上演される演劇『The Nether(네더 ネダー)』がどのような成果を見せるか、興味津々です。

稽古中のドイル役イ・デヨン

『The Nether』は、アメリカの女性作家ジェニファー・ヘイリー(Jennifer Haley)が2012年に発表した作品です。本作でヘイリーは、優れた女性作家に与えられるSusan Smith Blackburn賞を受賞し、翌年にはLA Ovation awards Best Play賞も受賞しました。それだけではなく、イギリス、ドイツ、スウェーデン、トルコ、ノルウェーなど16カ国で上演されました。
この作品が好評を得た理由は、未来の物語ですが、今からよく考えて討論しなければならない問題を扱っているからだと思います。SFといえば映画のように華麗なCGの画面をイメージされる方が多いかもしれませんが、『The Nether』は、最初のSF小説だと言われている『フランケンシュタイン』がそうだったように、人間の欲望から生まれた科学の成果が我々の価値観にどのような変化をもたらすかを問う作品です。

物語は、女刑事モーリスが事業家シムズを未成年売春の容疑で取り調べをするシーンから始まります。しかしモーリスが把握している容疑者の情報とは全く異なる人物であるシムズは堂々と嫌疑を否定します。やがて、その容疑者の情報が、シムズが「Nether」のなかで作ったアバターのような仮想の彼自身と一致することが明らかになっていきます。

刑事モーリス(キム・グァンドク)は、容疑者シムズを追求する

「Nehter」とは、現在のインターネットに当たる仮想世界です。本作の舞台となる近未来では、この「Nether」の空間を通して人間の五感すべてを生々しく感じることができるようになっています。会員となってログインすれば現実と同じ仮想のファンタジーが体験でき、教育や仕事はもちろん、売春などの違法行為まで「Nether」を通して行われるため、身体に生命延長装置を付着して「Nether」のなかに完全に入りこんでしまった人まで出てくるほど、ユーザーを支配しています。
シムズは、自身の小児性愛嗜好がどんな薬でも治らないことに気付き、「Nether」のなかに秘密の空間を作った人物です。クラシカルな美しい邸宅に純粋な女の子たちを集め、彼女たちに“パパ”と呼ばれているシムズは、現実では決して許されない欲求を会員たちに提供しているのです。次にモーリスはこの空間の会員である中年の化学教師ドイルを参考人として呼び、捜査に協力するよう依頼。やがてモーリスはウードナッツという男性として「Nether」にログインし、シムズが作った秘密空間に潜入して、その空間で生きる少女アイリスと出会ったことで、事件の真相に迫っていくのです。

(左から)ドイル役イ・デヨン、シムズ役キム・ジョンテ、モーリス役キム・グァンドク
Netherに秘密の空間を創るシムズ役キム・ジョンテ

モーリスに追求されたシムズは彼女に問い返します。「私たちは現実では絶対許されない欲求を仮想世界で解決する。現実では誰も傷つかない。この空間を無くしてしまうとどうなるか分かっているのか。それでも無くしたいのか」と……。
このサイバー空間で人間の本質を問うという、これまでにない物語に挑むため、韓国演劇界でも屈指の実力派俳優が揃いました。小児性愛者のシムズを演じるのは『トイレットピープル』『テンペスト』『デモクラシー』など、公立劇場の演劇に多数出演してきたキム・ジョンテ。15年には密室で展開する英国発の翻訳劇“トリロジー”シリーズの第2弾『カポネトリロジー』にも出演して注目されました。
シムズを追う刑事モーリス役を『サム・ガールズ』『ノイズ・オフ』『下女たち』など数々の話題作に出演してきたキム・グァンドク。そして、もう一人の重要な容疑者となるドイルを、ドラマ『雲が描いた月明り』、映画『思悼(サド)』など、数々のドラマ、映画に出演してきた名優イ・デヨンが演じます。

アイリス役:チョン・ジアン(左)、ウードナッツ役イ・ウォンホ

鋭い論戦が展開される取調べ室、そして実在しないNetherの秘密空間……この二つの空間を往来しながら展開する、この作品世界を構築するのは、演出家イ・ゴン(コラムVol.15『短編小説集』参照)と翻訳家でドラマターグも務めるマ・ジョンファ(コラムVol.2『傷だらけの運動場』、15『短編小説集』を参照)です。このコンビの実力は、去年上演した演劇『短編小説集』の大成功で検証済みですが、実はその前から『Nether』の上演を企画していたそうで、それほど入念な準備期間を経て、上演するに至った作品なのです。
帰国子女だったマ・ジョンファは演劇学を専攻した研究者でもあるため、稽古にも積極的に参加するドラマターグですが、彼女とパートナーを組んだイ・ゴンもアメリカ留学派で、現在は青雲(チョンウン)大学演技芸術学科の教授です。二人のエリートが「シムズが正しいか、モーリスが正しいのか」という問いを投げかけるこの戯曲に惹かれたのは当然だったかもしれません。『Nether』は間違いなく観劇後、観客がテーマや内容について討論したくなるような作品だからです。

ドイル(イ・デヨン)はシムズ(キム・ジョンテ)に同志にも似た感情を覚える

個人的には、『Nether』の最も魅力的な部分は、物語自体はSFの領域なのに、それを表現する様式がアナログな演劇的方法を取っていることです。推理・SF小説が好きで、幼い頃から海外文学に親しんできた韓国の読者たちが、この作品をきっかけに演劇で楽しむ推理・SFの新鮮さを体験し、新しい「観客」になってくれることを期待しています。そしてこの作品が、韓国の劇作家にも良い刺激になればいいなと思います。

⇒ドイル役、イ・デヨンさんのスペシャルインタビューへ


【公演情報】
演劇『The Nether(ネダー)』(네더)
2017年8月24日~9月3日 東洋芸術劇場3館(大学路)

<出演>
●ドイル役:イ・デヨン
●シムズ役:キム・ジョンテ
●モーリス役:キム・グァンドク
●ウードナッツ役:イ・ウォンホ
●アイリス役:チョン・ジアン

原作:ジェニファー・ヘイリー(Jennifer Haley)/演出:イ・ゴン/翻訳・ドラマターグ:マ・ジョンファ/舞台:イム・ゴンス/照明・映像:シン・ジェヒ/映像共同制作:ソン・ギョンビン/衣装:チョン・ミンソン/小道具:パク・ヒョニ/ヘアメイク:キム・グニョン/音楽監督:ピ・ジョンフン/振付:イ・ハンナ/助演出:アン・ミビン/舞台監督:イ・ヒョンジン

写真提供:劇団的(チョク)


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