[Special Interview]イ・デヨン【中編】

 

ここでいきなり筆者の個人的な話で恐縮ですが、俳優イ・デヨンに興味を持つきっかけとなったのが、2005年の『復活(부활)』というドラマでした。主演したオム・テウンの出世作として知られるこの作品は、ある事件をきっかけに主人公ハウンの出生の秘密、事件の背後にある巨悪を暴いていく巧妙なストーリーで放送当時「復活パニック」という熱狂的なファンを生んだ作品でした。劇中でイ・デヨンさんは刑事ハウンの上司であるキョン・ギド班長を演じ、事件の重要なカギを握る役を担っていたのです。

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●2005年に出演されたドラマ『復活』は助演陣に渋いベテラン俳優がたくさん出演していましたが、俳優のプロフィールを調べてみると、ほとんどが演劇俳優だったんですよね。
「そう、演劇出身俳優が多かったですね。(キム・)ガプス兄さん、(キ・)ジュポン兄さん……。『復活』は韓国で今でもファン層が形成されていて、マニアのファンがとても多いです。ファンの希望が通って初めてディレクターズカット版DVDも出たし、劇場を丸ごと借りてイベントをやったりもしました」

●演出したパク・チャンホン監督のファンクラブもありましたよね(笑)。このドラマでデヨンさんは警察の捜査班の班長役でした。
「はい。キョン・ギド班長(笑)(※名前の発音は、韓国の地域名、京畿道にかけてある)班長は、ドラマの中盤で刺されるのですが、ストーリー上、重大な秘密を握っているので殺すことはできない。それで、3、4話くらいは病院で横になっているだけで出演料をもらいました(笑)」

●(笑)。このドラマ以降、大学路(テハンノ)でデヨンさんの出演作もいろいろと見るようになりましたが、『春の日』や『私に会いに来て』のように韓国の創作演劇に出演されることが多かったように思いますが?
「創作劇だけではなく、翻訳劇も実はたくさんやってきたんですよ。私が所属してきた劇団『シンシ(신시 現シンシカンパニー)』や、劇団『演友(ヨヌ)舞台(연우무대)』、キム・ガプス先輩が主宰していた『俳優世界(배우세상)』でもちょっとやっていたんです。それぞれが創作劇を優先的に作る劇団だったので、その劇団に所属していたときはほとんど創作劇でしたが、2006~7年? くらいからは大学路で、劇団(で作品を制作、上演する)という概念がやや瓦解していって、プロダクションによる制作システムに変わってからは翻訳劇にもたくさん出演してきました」

●ここからはデヨンさんのこれまでのキャリアについてお伺いしたいです。プロフィールには名門、延世大学の神学科出身となっています。
「はい、延世大の神学科出身はほかにアン・ネサン、ウ・ヒョン。もっと上にはミョン・ゲナム先輩がいますね。アン・ネサンさんは神学科の中にある演劇サークルで活動していて、ウ・ヒョンさんはほとんどやってなかったけど、二人ともデモを一生懸命やっていたほうでした(笑)。実は私と同じ歳なんですが、二人とも浪人したから1学年下で、今も会うと“兄さん”とか“先輩”と呼ばれるんけど、ほぼ友達ですよ。同い年なんだから(笑)」

●やはり皆さん演劇出身俳優ですよね。でも一般的に神学を学ぶ人は神聖でお堅いイメージがあり、なぜ演劇を始めたのか、どうにも結びつかなくて不思議だったんです(笑)
「他の教団の神学校と違って、延世大の神学科は、特定の教団が設立したものではなく、教派連合的な性格もありました。民衆神学と1970~80年代に南米で起きた解放の神学の影響を受けて、若干の政治的な性向も帯びた民衆神学の本山でした。それですごく自由主義的な性向が強く、デモなどの社会運動にもたくさん参加していたんです。一般的に神学校を卒業すると牧師になったり、神学科の教授になる学校とは違って、延世の場合はとてもリベラルで総合大学の中にあるからか、いろんな関心も持てたんです。卒業後にも牧会や一般神学の勉強を続ける比率が50%にも満たない。 30~40%ぐらいかな? それで変わった奴が出ているんです。例えば同級生には映画監督や演劇演出家、警察官もいて、金融監督院に入った奴もいます。神学科にしては幅が広いんですよ」

●元々キリスト教徒なんですよね?
「うちは三代キリスト教の母体信仰(※生まれながらにしてキリスト教を信仰していること)で、幼いころから自然に教会に通っていた敬虔なキリスト教徒でした。でも高校3年生のとき、むやみに胸が熱くて、空しくて、訳もなく世の中が悲しくなり、死にたくなったことがあったんです。ところが自分が20年近く信じて来た信仰がそれを助けることが出来なかったんですよ。 それでさらに迷って彷徨もたくさんしました。その頃に酒も覚えて(笑)。それから大学入試のとき本当は哲学科とか国文科くらいに行ければいいかと思っていたけど試験の点数が微妙で、哲学科はちょっと危なく、神学科は安全圏でした。それで神学だろうが哲学だろうがもう、反抗心のようなものもあり、迷いが生じた時には何の役にも立たなかったこの信仰に一度正面からぶつかってみようという子供じみた考えもありました。当然延世大という看板にも惹かれ、ロマンももっていました。イ・ムンヨル(이문열)という作家の『人の息子(사람의 아들)』という小説を読んで感じた、神が人間の問題で悩む神学が、格好よく見えたりもして神学科に行きました」

●そういえば以前インタビューした俳優(⇒イ・スンジュ編参照)も、本当は哲学科に行きたかったと言っていました。
「だけど、いざ神学科に入ったら、民衆神学を支持した教授たちはみな追い出され、とても厳格でつまらない教授だけが残っていて、思っていたほどの面白さがなかったんです。 春に入学したばかりの新入生がデモして連行されている姿ばかり見てとても胸が痛むけど、石を投げる勇気はない……そんな憂鬱な日々を送っていたら、ある日高校の同級生がすごく楽しそうにしているんですよ。“お前、何やってんの?”と訊いたら、“演劇をやっていてすごく面白い”と。それで“僕もそこに入ってみるか?”となったんです。その演劇サークルに入る前は、実は演劇を1作しか見たことがなかったんです。『エクウス(에쿠우스)』※2 という作品で、その頃ずっと信仰や異性の問題に悩んでいた自分とぴったり合致する作品でした。それまでは演劇に魅力を感じたことがなかったのに、作品が本当に強烈で。今でこそ俳優が全裸で出るような作品もありますが、当時は舞台で女性が下着しか身に着けていない姿を間近で初めて見てかなりショックを受けました。それでその友達にくっついて演劇サークルに入りました。演劇自体の面白さはよく分からなかったけど、若者たちがひとつのことにこだわり、今にして思えば大したことでもないのに、酒を酌み交わしながら演劇や芸術の話をするのが素晴らしく思えたんです。メンバーもとてもいい人たちで、俺が夢見ていた大学生活はこれだ!と。演劇自体よりも人と会って騒いで少し芝居する……すると、格好よく見えるし、その雰囲気が好きでサークル活動をしていました」

※注2 演劇『エクウス』は英国の劇作家ピーター・シェーファーが1973年に発表した戯曲。愛馬の目を突いた少年アランと精神科医ダイサートとの対話から家族の問題、思春期の性など、彼の背景が徐々に明らかになっていく。韓国では劇団実験劇場が1975年に初演し、チェ・ミンシク、チョ・ジェヒョンなど多数の有名俳優が出演してきた。2016年には韓国40周年記念公演も行われた。

●大学を卒業したあと、本格的に演劇俳優として活動を始められたんでしょうか?
「大学1、2年生の時は、本当にただ友達と話してお酒を飲んで遊ぶ楽しさだけでした。そのあと、短期間軍隊(兵役)に行ったあと、演劇の勉強をきちんとしてみようと思い、本も一生懸命に読んだし、舞台もマメに見に行って、これを自分の一生の仕事にしようかな?と悩んだ末に、やろう、と決めました。他に面白さを感じるものもなく、自信もなく、 サラリーマンはやりたくなかった。私はたまたまタイミングが良かったんです」

●でも、ご両親は反対されたのではないですか?
「当然反対しました。 私は父が50歳を過ぎてできた子なんです。両親は朝鮮戦争のときに越南(北朝鮮から韓国に降りて来た)してきたのですが、姉が二人いたけど、歳を取ってからできた長男だから大事に育てられました。そんな息子が演劇をするというんだから(笑)。しかし父は理解がある人でしたから“演劇をやるのはいいけど、それは金持ちの子がすることで、自分がいつまで助けてやれるか分からない”と、そういう心配をしてくれたんです。私は二代独子※3 だったので、本当は兵役が30カ月のところを6カ月だけ勤務をしたのですが、“軍隊に行ったつもりで2年だけやってみます”と言い張ったんです。 ですが、それが30年になりましたね」

※注3 二代独子(イデドクチャ/이대독자)とは、父、子二代続けての一人息子(=一家の跡取り)という意味。二代独子の場合、以前は兵役期間が短縮されたり公益勤務に着いたりしていた。現在は一人息子でも基本的にはこのような優遇措置はないという。

●最初に出演されたのはどんな作品でしたか?
「サークル外の作品に出たのは大学3年の冬休み、1987年でした。演劇部の先輩であるキム・テス演出家※4 が他の演出家の作品の助演出をしていました。『不細工な美女(米女)못생긴 미녀』※5 という作品でしたが、アメリカを風刺するような一種の反米演劇でした。出演者の中の一人が、初日の3週間前に突然逃げたんですよ。それで俳優が一人いなくなったので誰か探して来い、と言われたテス兄さんが、まだ学生だけど、そんなに大きな役ではないので、演出家に一度使ってみてくださいと言って、私が起用されたんです。それが87年の1月か2月でした。ちょうどパク・ジョンチョル※6 が拷問されて死んでから間もないころでした。 これが最初ですが、大学を卒業してから出演したのは『立ち上がれアルバート(일어나라 알버트 原題は「WOZA ALBERT!」)』という作品が私のデビュー作だと思います」

※注4 キム・テス(김태수)演出家 劇団「卍模様(완자무늬)」の代表。同劇団は、イ・デヨンと同じく延世大学神学科出身の俳優ミョン・ゲナムらと共に1984年に設立。社会問題を題材にした創作劇や、翻訳劇も硬派な作品を多数上演している。
※注5 韓国語ではアメリカのことを美国(미국 ミグク)と表記するため、美女=アメリカ人女性の意味。美女を指すのは同じ文字・発音の(미녀 ミニョ)。
※注6 パク・ジョンチョル(박종철) 当時ソウル大学の学生だった民主活動家。全斗煥(チョン・ドファン)大統領が独裁体制を敷いていた第5共和国末期の1987年に公安当局に拘束され、拷問を受けて死亡した。これを政権が隠蔽しようとしたことから「6月抗争」と呼ばれる多数の民主化運動が起こり、のちに13代大統領となる盧泰愚(ノ・テウ)が「6.29民主化宣言」を出すことになった。

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中編では俳優イ・デヨンの誕生秘話をじっくり語っていただきました。⇒インタビュー後編 では、これまで出演してきた演劇について。そして出演作が50本を超える映画やドラマについても伺っています。

【←インタビュー前編】 【インタビュー後編→】


取材・文:さいきいずみ 翻訳:イ・ホンイ ポートレート撮影:キム・ジヒョン

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