翻訳劇制作の世界、演劇『ナミヤ雑貨店の奇蹟』
韓国では、1月から大学路では生まれたばかりの赤ちゃんのようなショーケース作品がたくさん上演されました。前回のコラムで紹介した「NEWStage」とほぼ同じ時期から始まった「創作産室(창작산실)」の作品群も2月まで上演が続きました。「創作産室」は、オリジナルの演劇・ミュージカルを公募し制作するプログラムですが、韓国は3月から年度が変わるため、2月は一種の成果発表の場になっているのです。
それと同時にソウル文化財団の助成金公募申請の締切りも2月にありました。大学路で活動する多くの演劇人は助成金をもらって作品を制作するため、2月は大学路のあちこちで申請書類を作成する演劇人を目にします。厳しい競争のなかで助成金を得て新しい作品を作るためには、入念な準備が必要なのです。
韓国にはさまざまな助成金プログラムがありますが、どうやって選定作を決めるか気になる方もいらっしゃると思います。例えば、ソウル文化財団は書類審査を通して、「創作産室」は書類審査とショーケースを通して作品を選定します。加えて、最近は、“朗読公演”という形式を活用するケースが増えています。ショーケース公演に比べて制作期間と予算を節約でき、事前に観客の反応を見ることができるからでしょう。去年から試験的に朗読公演を行い、今年からは定期的なプログラムとして編成する予定のドゥサン・アートセンター、加えて今年3月に行われる南山アートセンターの「サーチ・ライト」がそれです。以前からアート志向の強い作品をサポートしているこの二つの劇場だけではなく、このような試みは一般観客の反応に、より敏感な商業劇の世界では実はもっと前から行っています。日本でも上演された『女神様が見ている』などを生んだ、CJ文化財団が実施している「CJクリエイティブマインズ」がその代表的なプログラムです。
そして、2014年のオープン当初から話題の小劇場作品を多数上演し、新たな大学路のメッカとなっている「デミョン文化工場」も去年から新作発掘プログラム「公演に出会う、同行(공연, 만나다 동행)」(以下「同行」)を始めています。「同行」は創作劇と翻訳劇を問わず、デミョン文化工場が制作できそうな良い脚本があれば誰でも応募できるプログラムで、書類審査を受けて選ばれた3作品は、全2回の朗読公演を行い、観客からのフィードバックを検討した上で、一つの作品を選定。その作品は正式にデミョン文化工場のレパートリーとして本公演になるのです。
今年行われた第2回「同行」には、一つ特徴がありました。それはミュージカル『Boys in the band(보이즈 인더 밴드)』以外の二つの作品、音楽劇『曲がれスプーン(구부러져라, 스푼)』と演劇『ナミヤ雑貨店の奇蹟(나미야 잡화점의 기적)』は、日本の作品を原作にしていることでした。『曲がれスプーン』は劇団ヨーロッパ企画の上田誠による同名原作をミュージカル『洗濯(パルレ)』の作・演出家チュ・ミンジュが脚色と演出を務めた作品。一方、東野圭吾の同名小説が原作の演劇『ナミヤ雑貨店の奇蹟』は劇団キャラメルボックスの成井豊の脚本を、『女神様が見ている』の演出家パク・ソヨンが演出した作品です。
翻訳劇の場合は、ある程度、既に検証されたコンテンツだと思われることが多く、なかなか新作のためのサポートは受けられないのですが、数少ない創作支援の機会の中で、韓国演劇界とミュージカル界の全体的な翻訳劇の比率を考えてみても、日本の作品が二つも入っていたのは、やはり珍しいことでした。
今回、演劇『ナミヤ雑貨店の奇蹟』を準備したのは、実は去年の第1回「同行」で朗読上演されたミュージカル『容疑者Xの献身』も制作した「ダル・カンパニー」でした。同じく東野圭吾の原作小説/成井豊の脚本をベースに、2014年に上演された演劇『容疑者Xの献身』(イ・キプム演出)を見て「同行」の朗読公演につなげたダル・カンパニーが、再び力を入れて作ったのです。
ちなみに、東野圭吾は韓国で最も愛されている日本の小説家の一人です。韓国を代表する大型書店、教保(キョボ)文庫によると、2007年~2016年の間、日本の小説で最も売れたのが「ナミヤ雑貨店の奇蹟」で、特に2014年からは3年連続1位を記録したほどのベストセラーになっているそうです。「容疑者Xの献身」も6位に入るほど、東野作品は韓国で親しまれているのですが、それゆえに、今年の「同行」は期待と共に心配の声も高かったのも事実でした。そんななかで最も反応が良かったのは、やはり『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の朗読公演で、特に俳優の力が大きかったと評判になりました。ナミヤ雑貨店に盗みに入る、敦也、翔太、幸平を演じたホン・ウジン、チュ・ミンジン、チェ・ソンウォンは、まるで本公演のように台本を持たず台詞を全て覚え、動きもつけて演じました。何よりも、ドラマ『応答せよ1988』出演後、白血病が発覚して舞台を離れていたチェ・ソンウォンが9カ月ぶりに復帰するとあって、舞台ファンのみらなずマスコミも注目していました。また、この作品は登場人物がとても多いのですが、前出の3人以外の26名の登場人物を7名の俳優が巧妙に演じ分けました。朗読公演ながらも俳優全員にとって、とても負担が大きい作品でしたので、それを見事にこなした俳優への拍手が大きかったのです。
『ナミヤ』チームが稽古を始めたのは1月23日で、朗読公演の2月10日~11日まで約3週間の時間がありました。翻訳者として参加した私もこの期間の間、たくさん学び、またいろんなことを感じることができました。
- 多くの観客に既に読まれた小説を舞台化するにあたり、どうすれば新鮮だと感じてもらえるか。
- 大劇場用として作られた脚本を小劇場、それに朗読公演という形式にうまく作れるかどうか。
- 日本人の人物名が、韓国の観客には難しくて覚えにくいが、30名に近い登場人物をどのように整理すれば良いか。
- 日本語だからこそ可能な駄洒落のようなセリフをどうするか。
- 韓国の観客には受け入れがたい日本独特の部分をどうするか。
などの課題があり、それをスタッフや俳優とみんなで悩む時間でもありました。
は、演出家パク・ソヨンの奇抜なアイデアで、朗読するときに俳優が台本を置く譜面台の前に役名とキャラクターイメージの絵を描いた紙を掛けておき、紙芝居のような楽しさとともに、役柄の情報を観客に提供しました。
は、原作を最大限変更しない、という方針になりました。
全ての翻訳劇がそうですが、このように翻訳の過程は翻訳者一人の作業だけでは終わりません。俳優に読んでもらってからわかることもありますし、今の韓国社会の雰囲気に影響される場合もあります。例えば、2014年に翻訳を担当し、ドゥサンアートセンターで上演した『背水の孤島』(中津留章仁原作)は、東日本大震災を取り上げた作品でしたが、稽古が始まるころにセウォル号事件が起こったことで、観客たちの作品の解釈に大きな影響を与えました。ほかにも、去年、著名な芸術家によるセクハラや性的暴行事件が相次いで話題となったため、最近は性的な冗談や女性を卑下する表現などに観客が敏感となってしまい、抗議をすることも多くなりました。このような背景もあり、①から⑤までを慎重にクリアしていくことは制作陣にとってとても大事な作業となりました。
このように、さまざまな試行錯誤を経て、作品はようやく観客に出会うことができるのですが、翻訳者には、最後の仕事が残ります。一所懸命に楽しく観劇すること。加えて観客の反応をつぶさに観察することです。トイレやロビーで観客たちが交わす対話、SNSでのつぶやきの全てを丁寧にモニターして、特定の台詞が気に入らなかった、とか、逆に良かった、などのコメントが出ていないか確認するのです。このモニタリングで特に指摘がなければ、作品は観客に何の違和感もなく、自然に受け入れられたことを意味するので、翻訳者として安心しても大丈夫だという証拠になるとも言えます。
そういえば昔こんなことがありました。2015年にLGアートセンターで上演した演劇『少しはみ出て殴られた』(土田英生原作)を観劇したミュージカル俳優のホン・グァンホさんが、終演後に「これ翻訳劇だったんですか? 全然分からなかった。オリジナル脚本だと思いました」と言ってくれたのです。これは、個人的には最高の褒め言葉でした。アイロニーですが、翻訳者は存在感が薄ければ薄いほど、嬉しいのです。今回の『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の朗読公演も、翻訳者として少しでも成長する機会を与えられたことを心から感謝しています。
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